「はだかのいのち」 高谷清
『心身ともに重い障害児者は、人間としての「付加価値」が何もないようにみえる。自分で移動さえできず、しゃべれず、理解力はきわめて低く、生きていくために全面的に他の人助けが必要である。人間が「いのち」以外の「付加価値」で価値評価されるとしたら、彼らは成人しても労働能力はないし、学力・知力やスポーツ能力もない。のみならず人の全面的な介助なしには生きられない彼らは「価値ゼロ」である。彼らにあるのは「いのち」そのものだけである。「いのち」しかもっていないのだから、彼らが大事にされるということは、だれもがひとつずつもっている「いのち」が大事にされるということであり、彼らが認められないとしたら、「いのち」が認められないということになる。』
『少なくとも、いのちを守り、健康を回復するための看護は、いのちはみんなはだかで、いのちそのものが大事にされるということが基本であるのだろう。
重い障害をもつ人たちは、いのちだけがはだかで存在している人たちであるといえる。彼らの存在はそのものがいのちであり、もし付加価値のみに人間の価値をおけば、彼らの存在は無である。私は、あるがままを価値観ぬきで、受けとめることの大事さを思うのである。』
最近、胃瘻の是非が問われることが増えてきた。しかし、重度障害の方々で胃瘻を行っている人々からは、この論点に対して反発が生まれている。胃瘻は、是か非か。そこに、新たな視点を高谷氏は与えてくれているような気がする。
健康な命が変化して障がい者の命になるのではない。
人間は生まれたときは自分では何もできない、「はだかのいのち」の状態で生まれる。
そして、まずはじめに、そこに親の愛が覆いかぶさり、その命を守る行為が始まる。そして、歳を重ね、教育を通じて、さまざまな生きていくための「殻」をその「はだかのいのち」は身に着けていく。そして自立する。
障がいは、その殻が壊れた状態と高谷氏はいう。この状態は、いのちが一部むき出しになってしまっている状態ともいえる。ケアとはそこをうめ、一部はだかになってしまった「いのち」が、壊れないように守る行為だという。障がいは、その中に包含される「いのち」には何の価値変化ももたらさないというのだ。
健康者が障がい者に変化すると考えると、まるでいのちの価値が変化したように感じてしまう。しかし、高谷氏は、いのちの価値そのものは全く変化しない、と説く。
では、殻が壊れて、そのままでは壊れてしまうはだかのいのちを守るために必要なケアがあり、その一つが胃瘻だと考えればどうだろうか。たとえどんな状況であったとしても、その行為を否定できるだろうか?
胃瘻が是か非かを論じる前に、はだかのいのちを守るためにケアを提供している人々を守るための、社会のケアの可能性を論じるべきだはないだろうか。これは、子供を守る女性の社会進出の問題とも重なる。
はだかのいのちを守るためにケアを行う人々に対して、社会がケアを実現することに、本当に知恵と汗が注がれているだろうか。
人はやがて確実に死ぬ。
この限られた時間が過ぎるまでの間、その殻をまもってあげようとする人々の行動、肉親の行動を、誰一人として否定することはできないと思う。たとえ、高齢者であったとしても否定はできるまい。胃瘻を行い、その命を終わりが来るその日まで、そのはだかになったいのちを守るという、いのちを大切にする行為を誰が否定できるのか?
はだかのいのちを守る人々を、さらにその外側から守る周囲の人がいて、さらにそれ守ろうとする社会がある。そんな、いのちを出発点とするケアの連鎖が起きる日本になってほしい。
高齢社会を乗り切った先に、そんな日本になることを期待したい、いや、そんな日本にしたいと強く思う。
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