2013年6月27日木曜日

医療の発達と死を支える医師

医学の進歩には著しいものがあります。
本日、iPS細胞の臨床承認がおりたようですね。

医療はどんどん進化し、研究開発により生まれたさまざまな技術が使われ、手術はロボットに、診断や管理はコンピューターで行うことが主流になっていくでしょう。では、医師の仕事はそれらにとって変わられてしまうのでしょうか?

残念ながら人間は生き物です。
どれだけ医学が発達しようとも必ず死ぬ瞬間が訪れます。
解決できない死という問題を抱えている人間を、解決できないまま見守る人が必要です。それこそが、どこまで医療が発達したとしても、医師という人間に最期まで残されることになる仕事ではないでしょうか?

僕たちは、そこを医療の原点と定めています。
死を遠ざけるだけではなく、解決できない死という問題をもつ人間を支えることこそが、僕たち医師の使命だと思います。

どれだけ医療が発達したとしても、人を産むのが人であるように、死に面した人を支える存在は、同じく死ぬ存在である人間であってほしいと思います。

2012年6月23日土曜日

医療の不完全性

今日は我々の対応に対して手厳しい批判をお持ちの方にご意見をいただく日。


ついつい、「行っている個々の医療サービス内容の改善へむけての話」に終始しがちな設定である。そして、ついつい進んでいくのは、「高齢者医療という正解のない作業を行っていることを、患者側が飲み込むことができるかどうかだ。」という方向性だ。


しかし、その前に医療者自身の心の中に必要な大切なことがあると思う。
医療の大前提に「不完全な知識で、正解のない作業に、資源不足の体制で臨んでいる。」という事実がある。


まず大切なのは、それをそのまま、不完全な知識だからと逃げることもなく、正解がないからと逃げることもなく、資源がないからとやめてしまうことなく、医療者自身がしっかりとどこまでも対峙する覚悟をもつことである。


もちろん、この大前提を飲み込めない患者から医療者は強い批判をうける可能性がある。そして、医療者が彼らを理解のない患者だと切って捨てることは簡単である。しかし、命に関して、この現実を患者側が飲み込むのも、これもまた苦しい作業であることを理解しなければいけない。


大前提を飲み込めない患者に代わって、彼らからの厳しい批判にさらされながら、医療者がこの不十分さを、患者に対しての理解を押し付けることなく、自身への批判のまま飲み込み続けることも、医師の、「患者の苦しみを軽減する援助者」としての重要な役割なのかもしれない。批判のみを残し去っていく患者もいるが、それも医療者の役割の一つなのかもしれない。


むしろ、プロの医療者にとってはこの苦しみを、明日へのモチベーションへと変換できることが必須事項かもしれない。


たとえ技術が優れていて、知識が優れていても、この心構えがなければ、医療者、特に医「師」(士ではなく師)として進んでいくのはつらくなってしまうと思う。

2012年5月6日日曜日

メディカルラーニングバー!

一般社団法人LINKで展開するメディカルラーニングバー。

地域で頑張る、医療・介護・その他周辺産業の従事者同士の垣根を突破し、価値共創の種を撒きたい。本当に、地道な作業だが、全国に展開することで、多職種、他組織の交流を深めていきたい。


2012年3月13日火曜日

TPP議論雑感

ともすれば、各論の不都合を持ち出して反対意見に終始してしまうTPP議論に警鐘をならしたい。変化を恐れ、扉を閉ざしてしまうのは、まるで日本を安楽死させることを選んでいるということにつながることはないだろうか?

TPPについて、賛成反対を行う以前に重要なイシューがある。日本全体が、将来どのようにありたいのか、そして、どのような国際的貢献をしてくのか。そのビジョンのもとに、徹底的に戦略を議論し、その戦略を実行するための位置づけとしてTPPを考えるべきである。変化を恐れていても、もう、すでに、日本は人口構造という根本的な構造が大転換点を迎えている。この大転換点の先にどのような日本を作りたいのかを考えることが必要だと思う。今の日本を閉塞感のあるものと捉えるのはもうよそう。この転換点に生まれ、あたらしい日本の秩序、Japanese New Order の形成の時代に自分が生まれたことを心から感謝したいと思う。

ビジョンをもとう。ビジョンは政府に責任を求めるものでは決してない。将来の子孫にどのような世界で暮らしてほしいのかを考える、人間として当たり前の作業である。この大切な作業を、僕たちは日々の中で忘れてしまったり、または他力に任せてはいないだろうか?僕たち日本人の一人一人の心の中に、30年後の日本のビジョンをもとう。そして、そこへ向かうには、明日、目が覚めたときに、自分が何をすればいいのかをイメージしよう。TPPに対して、賛成・反対を論じる前に、僕たち一人一人の心の中に、30年後の日本をどのようなものにしたいのか、そのビジョンがあるかどうかを問い直すことの必要性を感じる。

グローバリゼーションは平らな世界を作るのではなく、spike状に分布する世界を作るといわれる。お金が自由に行き来し、情報が自由に行き来し、物も自由に動くようになる。では、我々はどこに住みたいか?おそらく人々は多様性やリーダーシップや寛容性や美しさや気候などを軸に、居心地のいい場所の居心地のいいコミュニティーへと集中していく。それは、自然に人口密集のメガ地域を生み出し、都市が世界的に限られた場所に集約されていく姿になる。

これは、リチャードフロリダのクリエイティブ都市論の内容だ。しかし、このような世界への移行過程では、お金や情報を囲い込む既得権が大きく抵抗する。これら抵抗者は、もちろん、今現在お金や情報を多く独占している存在であり、すなわちこれは、権力者だ。

お金や情報を自由に動かし、ものが自由に動き出せば、それらの呪縛から人は解き放たれ、どの場所で誰と時間を過ごすのかを重点的に考えるようになるだろう。そうなったとき、僕は日本は、人々が目指す素晴らしいエリアになりえると考える。

TPPといえばアメリカの言いなりという感がある。その大きなテーマとして格差社会が存在する。格差社会は確かに問題だ。その格差の流動性が固定されてしまうと悲劇だ。特に同一地域での格差は特に問題である。貧しい国でも格差の少ない社会では安定性が高いともいわれる。しかし、少なくとも同一地域内での格差は避ける必要があります。

グローバルな非格差社会を作るには、アメリカの自由主義ルールではない新秩序の形成が必要である。決してアメリカのいいなりではない。そのチャレンジとして、日本が何ができるのかを考えるべきだと思う。アメリカとは違う社会を作り出すためのアクションとして、米国対日本という構図ではなく、環太平洋エリアという多国で交渉する舞台でどのようにふるまえるのかが鍵だろう。また、アジア圏の合意形成型の民族の特性は、アメリカの自由主義的格差社会の形成に対してバランスを与える文化でもあると思う。

安全保障を完全にゆだねているアメリカには言いなりにならざるを得ないという意見もある。しかし、日本のすぐ向かいには中国の存在があるために、安全保障上、日本という場所を無視することはできない。日本は対中国戦略にとって極めて重要な要衝である。この戦略的地理的位置の有利性も駆使しつつ、TPPも戦略的に利用し、国際的な新秩序の旗振り役として日本がリーダーシップを発揮することはできないか。冷戦後、世界戦略として最重要なのは、中国とアメリカの構図である。独力で中国に対抗する方法はもはや得策ではない。日本は中国にとっての第一列島線である。第二列島線を形成するアジア諸国と一体となって、中国の南シナ海覇権、インド洋覇権、北極覇権からアイルランドへ抜ける覇権形成を目指すグローバルな中国戦略に対抗しなければいけない。さもなければ、中国の戦略に取り込まれる国家となるだろう。

TPPを踏み台として、環太平洋領域において、中国と対抗するために、日本が加わることで始めて可能になる今までの米国戦略一辺倒ではない新秩序の形成を目指すのだ。アメリカを巻き込んだ環太平洋での秩序を基本に、インド圏と連携をとりながら中国とのバランスをとることのできる唯一の国家となる方法もあり得ると考える。

繰り返しになるが、大問題なのは、大前提となる国家像があいまいになってしまっていることだ。日本にはまだカネ(経済力)がある。それが失われる前に、日本のよさが最大限発揮される未来の国家像を打ち出す必要がある。ただ、時間はあまりない。

経済成長によって自ら夢を描く能力を奪い去られたあと、その成長が失われ高齢社会を迎える日本は、飛ぶ羽が一部抜け落ちた鳥が、空に放たれたごとくなのかもしれない。しかし、落ちるまでにはまだ距離があると思う。もう一度飛ぶために、羽ばたくことを全力で行ってもいいと思うのです。ビジョンとそれに向かって飛ぶ意志でもう一度羽をとりもどしたい。

変化が必要な時には、あらゆる変化をチャンスとして見つめなおしていくことが必要だ。TPPを千載一遇のチャンスかもしれないと考えることが必要だ。まずは、そう考えることが必要だ。少なくとも、自らの環境変化を拒む根拠として、TPPをリスク視する視座の持ち方に居座り続ける態度は改めるべきである。

ビジョナリーな国家となり、そのビジョン実現のための打ち手としてTPPを最大限活用してほしいと思う。

参考文献

2012年2月26日日曜日

日本の未来は過去の延長上にはない

恐ろしい勢いで高齢化が進んでいる。
そして、恐ろしい勢いで子供が減少している。
この恐ろしさを日本人は認識できているのだろうか?

これは面白い。
統計データの推移から、現実を見せつけてくれる。
ごく簡単な基本的なデータのみを示そう。

平均余命はこうだ。

高齢者の増加はこうだ。

そして、子供の減少についてはこうだ。

施策をあれこれ発言する前に、全国民に現状をもっと突きつける作業が必要だ。
日本を空中分解させずに、未来へつなぐのは、今生きている国民しかできない。
方法論の前に、どこまで危機意識を持てるかに注力すべきだ。
特にすべての小学校、中学校、高校、大学、マスメディア、企業の教育担当者に日本の将来に対して考える場をすべての人々に繰り返し提供してほしい。
そして、世界が変化していることを伝えてほしい。

大きな変化の波はもう立ち上がっている。
そして猛烈な勢いでその波が迫ってきていることを知ってほしい。

伝えるために時間はもうわずかしかない。

2012年2月8日水曜日

ケアされる存在が放つエネルギー

ケアされる存在からケアする存在に対して放たれる、ケアをしなさいというエネルギーが存在するようだ。


それは、自らを犠牲にして子供を守る親の本能が代表的なのかもしれない。

それは、足の不自由な人間が信号横断中に倒れたのを見た時、赤信号になっても車を制止し、彼を起こし安全な所へ移動させるモチベーションかもしれない。

これはギブ&テイクでもなく、功利的でもない。


介護の舞台に目をやってみよう。

決して治癒することのない嚥下困難の中で誤嚥を繰り返す施設の入居者がいる。

苦しそうな視線を送る患者がそこにいる。

医師と患者と家族の間では、胃瘻や点滴などの治療は行わない同意がなされている。

もちろん、急変時に救急搬送はしないことになっている。


私は夜勤のヘルパーとして働いている。

私には、「何もしなくてもいい。ただ、見守っていればいい。誰も責めないし、このまま見守ることが、本人も家族も希望していることである。もちろん、救急車も呼ばなくてもいい。ここで最期をむかえることが、それが一番皆が望んでいることだ。」という言葉が申し送られている。

しかし、私は苦しい。元気な時の彼の姿を覚えているからという寂しさとはまた違う苦しさだ。

何をしなくてもいいし、何をすべきでもない。

考えれば、気楽な役割である。

しかし、本当に、苦しい。


何もしないという同意が全員に得られたとしても、ケアされる存在から放たれた得体のしれない何かのエネルギーが私を苦しめている。


恐る恐る、のぞいた部屋には、穏やかに、何事もなく、ただ、呼吸のない彼が横たわっていた。

淡々と家族に連絡をし、医師へ連絡をする。


医師は患者と私にお疲れ様でしたと言った。

そして、家族は本気で涙をうかべて、今までありがとう、と私に言った。

私は、通常の業務に戻った。


しかし、いつもだ。何もしないという同意が得られたとしても、弱り行くケアされる存在から放たれる得体のしれないエネルギーが私を苦しめる。そのエネルギーはケアされる存在からもっとも近くにいるケアをする存在に、情け容赦なく降り注ぐようだ。

はだかのいのち

「はだかのいのち」 高谷清

 『心身ともに重い障害児者は、人間としての「付加価値」が何もないようにみえる。自分で移動さえできず、しゃべれず、理解力はきわめて低く、生きていくために全面的に他の人助けが必要である。人間が「いのち」以外の「付加価値」で価値評価されるとしたら、彼らは成人しても労働能力はないし、学力・知力やスポーツ能力もない。のみならず人の全面的な介助なしには生きられない彼らは「価値ゼロ」である。彼らにあるのは「いのち」そのものだけである。「いのち」しかもっていないのだから、彼らが大事にされるということは、だれもがひとつずつもっている「いのち」が大事にされるということであり、彼らが認められないとしたら、「いのち」が認められないということになる。』

 『少なくとも、いのちを守り、健康を回復するための看護は、いのちはみんなはだかで、いのちそのものが大事にされるということが基本であるのだろう。
重い障害をもつ人たちは、いのちだけがはだかで存在している人たちであるといえる。彼らの存在はそのものがいのちであり、もし付加価値のみに人間の価値をおけば、彼らの存在は無である。私は、あるがままを価値観ぬきで、受けとめることの大事さを思うのである。』

最近、胃瘻の是非が問われることが増えてきた。しかし、重度障害の方々で胃瘻を行っている人々からは、この論点に対して反発が生まれている。胃瘻は、是か非か。そこに、新たな視点を高谷氏は与えてくれているような気がする。

健康な命が変化して障がい者の命になるのではない。

人間は生まれたときは自分では何もできない、「はだかのいのち」の状態で生まれる。
そして、まずはじめに、そこに親の愛が覆いかぶさり、その命を守る行為が始まる。そして、歳を重ね、教育を通じて、さまざまな生きていくための「殻」をその「はだかのいのち」は身に着けていく。そして自立する。

障がいは、その殻が壊れた状態と高谷氏はいう。この状態は、いのちが一部むき出しになってしまっている状態ともいえる。ケアとはそこをうめ、一部はだかになってしまった「いのち」が、壊れないように守る行為だという。障がいは、その中に包含される「いのち」には何の価値変化ももたらさないというのだ。

健康者が障がい者に変化すると考えると、まるでいのちの価値が変化したように感じてしまう。しかし、高谷氏は、いのちの価値そのものは全く変化しない、と説く。

では、殻が壊れて、そのままでは壊れてしまうはだかのいのちを守るために必要なケアがあり、その一つが胃瘻だと考えればどうだろうか。たとえどんな状況であったとしても、その行為を否定できるだろうか?

胃瘻が是か非かを論じる前に、はだかのいのちを守るためにケアを提供している人々を守るための、社会のケアの可能性を論じるべきだはないだろうか。これは、子供を守る女性の社会進出の問題とも重なる。
はだかのいのちを守るためにケアを行う人々に対して、社会がケアを実現することに、本当に知恵と汗が注がれているだろうか。

人はやがて確実に死ぬ。
この限られた時間が過ぎるまでの間、その殻をまもってあげようとする人々の行動、肉親の行動を、誰一人として否定することはできないと思う。たとえ、高齢者であったとしても否定はできるまい。胃瘻を行い、その命を終わりが来るその日まで、そのはだかになったいのちを守るという、いのちを大切にする行為を誰が否定できるのか?

はだかのいのちを守る人々を、さらにその外側から守る周囲の人がいて、さらにそれ守ろうとする社会がある。そんな、いのちを出発点とするケアの連鎖が起きる日本になってほしい。

高齢社会を乗り切った先に、そんな日本になることを期待したい、いや、そんな日本にしたいと強く思う。