2012年1月20日金曜日
2012年1月19日木曜日
医療財源の不足
医療財源が不足している。
そう発言するのは容易に過ぎる気がする。
本当のニーズに応え、考え抜かれたプロセスを極めつくしてからでのみ財源問題を語る資格があると思う。資源がないので無理だ、と訴える資格があるのは、その背景に本当の意味で卓越した医療経営システムをもつもののみだ。そして、当然自分は、その資格はまだないと思っている。
「医療財源はない。」ではなく、「医療財源はある。」
足りないのはイノベーションである。
そう、考えよう。
もちろん、その定量的な根拠はない。なぜなら、それはイノベーションによってこれから生み出していくものだからである。
国は全体観をもって医療に資源配分を行っていると僕は信じている。
まあ、今は国を疑う人々が多くいるが、ならば、日本を変えるか日本を出ていけばいい。
これは、僕が信じているというだけである。
企業の地力は現場を見つめ、限られた資源を見つめ、優秀なイノベーションを生み出す中間管理職にあるともいわれる。逆に、現状の延長でのみ考え、資源がないと叫ぶ中間管理職の多い企業は、競争優位を保てず滅ぶという。
もっと資源配分をと叫ぶ前に、現場の医療者は、窮屈なその中でイノベーションを生み出そうとするのが本来業務ではないだろうか。現場をみつめ、限られた資源の中で最大のパフォーマンスを出すべき努力をするのが、診療に携わるものの使命ではないだろうか。
医療者として、財源不足を叫ぶことに時間資源を費やすのではなく、イノベーションを起こすほうに時間資源を費やしたい。そのほうが、世界をより良くすることにつながると思う。
2012年1月11日水曜日
先行ビジネスイノベーションに学ぶ医療へ
「医療はビジネスではない」という言葉をよく聞く。
果たして本当だろうか。
営利や非営利を問わず、また、組織形態を問わず、その事業目的を実現するための活動の総体をいう。したがって、ビジネスの主体者としては株式会社などのような営利企業だけなく、NPOなどの非営利活動法人や住民サービス提供などを行う行政組織等を含み、個人または法人組織などの事業体がそれぞれの事業目的実現のために、人・物・金・情報などの諸資源を活用して行う活動全体を意味する。
この定義を用いるならば、間違いなく「医療はビジネスである」。
「医療はビジネスではない」という言葉を発する医療者は、当然のごとくビジネスの知恵を医療に生かそうとはしない。
目覚ましく進化するさまざまなビジネスソリューションを取り込みながら、医療というサービスが世の中で発展していくことは素晴らしいことであると思う。その可能性を追求しないのは医療者としては罪悪ではないだろうか。
コンビニ受診をする患者が求める価値を、そのまま、もしくは、別の形で提供することはできないだろうか?
救急車をタクシー代わりに使う患者が求める価値を、そのまま、もしくは別の形で提供することはできないだろうか?
医療業界を眺めると、規模の非効率性が働いているとされるが、規模の効率性を働かせるモデルが出現すれば業界構造が一転することになりはしないか?
宅配便のクロネコヤマトの戦略や、コンビニのドミナント戦略、楽天のプラットフォーム戦略、アマゾンの・・・・・。
これらはすべて、顧客の価値を追求する上で、新たなビジネスイノベーションを生み出し、それが業界構造を書き換えた例である。同じように、患者にとっての医療サービスの価値を追求する目的で、これらのビジネスの先行事例に学び、新たなイノベーションを生み出し、それが業界構造を書き換える可能性はないだろうか。
もちろん、既存の変化できないプレーヤーにとっては、この変化は恐怖以外の何物でもない。
変化を恐れる医療者となるか、変化を起こそうとする医療者となるかは、医療者個々人の選択だろう。
僕は「恐れる」より「挑戦する」ことを選びたい。
2012年1月6日金曜日
Learn の前に Un-learn 。
在宅医療において多職種連携を行おうとすると、非常に多くのコミュニケーションを必要とする。しかし、そのコミュニケーションがすべて円滑にいっているとは言い難い。前提の共有がまずなされていないなどというお粗末なものも非常に多いが、もっと重要なことは同じものを見ていても、視座が違うために全く違う景色にみえていることを認識していないことである。これは、自戒も込めて真実である。
非常に幼い間は、自分の見ている風景と同じものが相手にも見えているという認識であるが、2歳ごろになるとそれが違うことを認識しはじめるという。もし、視座が違えば違って見えるということを認識していないならば、ある意味2歳未満ということだろうか。
視座が異なれば違う風景を見ることができる。それを視野という。
その中で今注目しているものがある。それを視点という。
そして、その視野の中で今見ているものを認識すること、すなわち、視点/視野から、意味合いを導き出すのが思考の構造だともいわれる。
とするならば、同じ視点に注目していても、全く異なる意味合いを持ってしまうこととなる。
他職種の視座が異なることを認識し、その視座に立ってみる。そして、そこから見えるものを学び取り、その意味を理解するように努めよう。視座がたとえ、我々とは全く異質なものであったとしても、そこから見える景色の理解に努めてみよう。ひとつの視座に固まってしまえば、世界は立体的ではなく平面的なものにしか見えない。そうなると自分以外の視座に立つすべての人々に対して価値を提供するなんて無理だろう。自分の視座から見える景色の裏側で世界が崩れていっていることにも気づかないだろう。
時には自分の視座から見える風景を磨き上げることをすてて、他の視座へ移動することが必要だと思う。そして、移動した先の視座で、同じものを全く違う意味合いをもって学びなおすことが、世界が立体的であることを理解するには不可欠だと思う。この視座の移動は今まで学んだ世界を捨てるという意味合いで Learn とは違う Un-learn の作業ともいえる。この作業を楽しめる学びほぐしの空間プロデュースのプロジェクトを数名の有志で昨日の夜から開始した。
もしかすると、他職種連携が必要で、かつ専門性が高い領域を扱う医療においては、他の視座を理解するということだけでは不十分で、二つの分野のスペシャリティーをもつことを目指さなければいけないのかもしれない。こう考えると思いつく高名な地域医療の猛者は医療以外の分野にも造詣が深いことが多いのもうなづける。
一時期もてはやされた一つの専門性とコミュニケーション能力で広がるT型の先に、世界の立体感を高いレベルで腹落ちさせることのできるΠ型の能力を持つことが、生活の中で医療をどのように組み込んでいくのかを扱う、かかりつけ医療・在宅医療・家庭医療などにおいては必要不可欠な能力なのだろう。医学的な意味合いの追求が的外れになっていることに気付かないことは、生活医療のなかでは間違いなく罪である。
最近、3歳のわが子が何度も何度も「こっち見て!こっち来て!!」と話しかけてくる。
2012年1月4日水曜日
日本の財政と高齢者産業、そして、医療経営。
今の日本の財政は増税や国債発行や低金利などの生命維持装置では回復しないといわれる。延長上に未来はないというのである。デフレギャップ下において、280兆円とも言われる対外資産と1000兆円と言われる国内資産をどのように回しさらなる価値を生むのかが重要であることは確からしい。では、どうすればよいのか?
解決策の定石としては、この多くの資産を流動化させ、既存事業の淘汰・再編・新陳代謝を早める必要があり、さらに新たな雇用を生み出すことが必要だといわれる。しかし、流動化が必要な資産をもつ(受け取り予定年金含む)人々とは、個人レベルにおいては年金をこれから受け取る世代の高齢者であり、組織レベルでは既存の成功し成熟した組織や産業となる。しかも、彼らにとって、魅力的なサービスや市場が大挙して供給される気配はない。財布のひもは固いままである。無理に開かせようとしたところで、これらの古い力が強く成熟している先進国では、政策的にも手を出すのはかなり困難であることは予想される。投票をする人間の多くが資産を持っていることを考えると、このような思考をもつ人材が政治家になることはほぼ不可能なのかもしれない。
ただ、このような状況下の中、高齢化により医療・介護に関しては、否応なく需要が増える産業となるという点で、また、供給過剰ではない点で最後の望みではあるのかもしれない。医療・介護を含む高齢者周辺の産業を淘汰・再編・新陳代謝を行い、多くの支出を高齢者が喜んで行うような質の高いサービスを可能な限り早いスピードで実現させることに、一抹の望みを託すことができるのかもしれない。
どうすればこのような動きが促進できるだろうか?この問いに対しては、残りの人生を憂いなくすごせるための、本当の意味での高齢者本位のビジネスプラットフォームを作ることで、いい事業と悪い事業を、経営の良し悪しも含めて厳しくスピード感をもって淘汰しつつ、いいもののみを結合し、さらに新規事業を生み出していくこのとのできる環境づくりを目指すことが、その方法として頭の中に浮かび上がってきた。医療者ももちろんその厳しい淘汰の環境で切磋琢磨しなければならない。
ならば、医療機関といえども安穏とした経営を行っている場合ではないと考えよう。逆に、安穏とした環境を維持しようと変革を行うことを厭えば、この一抹の望みすらも失ってしまうことになるのかもしれない。
将来「医療介護労働力が安い国=日本」となるなら。
今、介護を担うヘルパーの給与がよく問題視されている。また、医師はいまだに高所得とはされているものの、過酷な労働が明らかとなり、その賃金は決して魅力的なものではなくなってきている。これが、さらに進むことでどのようなことがおきるのか、少し考えてみた。
製造業の労働資源として国外の安い労働力へ企業が流れる現象が、もし、日本の医療者介護者の低賃金が進むことで、たとえば、中国をはじめ世界の都市部の医療介護労働者の賃金が、日本よりも高額になったとするならば、将来的に、世界が日本への医療介護資源への依存を進めようとする可能性があるとは考えられないだろうか。もちろん、国内で激増する高齢者がひと段落する30年後程度の話だが・・・。
ポスト高齢化社会の日本はこのようになっている可能性があるのかもしれない。
安くて高品質の労働力のおかげで、日本で医療は安く提供できる。
迎えた超絶高齢社会のために医療介護人材を大量に用意したため、若手の多くはその分野での労働経験が豊富だ。しかし、産業構造が荒廃し、今は安い労働を行うしかない。その一方で彼らの労働の質はめっぽういいようだ。
病院立地、もしくは、患者としてそれなりの療養生活を送るには質が高く安い医療・介護労働力を確保できる場所として日本は魅力のある場所だ。気候も穏便だし、交通インフラや通信インフラも整っている。居住に関して文化的・宗教的制約も少ないようだ。
大人口を擁するアジアへの医療産業進出を考える上でのステップとして日本は適している。
最高度の医療を提供する日本国外のアジアの病院治療へのアクセスも良好である。
日本は理想の老後を送る場所となるのかもしれない。
ポスト高齢化、ポスト経済大国の時代の日本にとって、良くも悪くも、安く質の高い労働力に支えられた医療介護産業立国がひとつの方法であるのかもしれない。と想像してしまった。
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